2021年2月8日月曜日

JLPT N3 N2: Japanese Short Stories: Osamu Dazai: No Longer Human



人間失格にんげんしっかく』(No Longer Human)を



太宰治だざいおさむ(1909-1948)の

人間失格にんげんしっかく』(No Longer Human)をんでみましょう。



これは、「葉蔵ようぞう」という

一人ひとりおとこ人生じんせい

えがいています。



子供こどもころ学生がくせい時代じだい

女性じょせいとの生活せいかつ

そして、

最後さいごには病気びょうきになります。



はなしは、

この「葉蔵ようぞう」の三枚さんまい写真しゃしんから

はじまります。



すこんでみましょう。



 その子供こども笑顔えがお

 ればるほど

 なんともえない気味きみわるいものを

 かんじる。

 (気味きみわるい:weird)



 そもそも、それは、笑顔えがおではない。



 この

 すこしもわらってはいないのだ。



 なぜなら、

 この

 両方りょうほうこぶし・・・(fist)を

 かたにぎって

 っている。



 人間にんげん

 こぶしをかたにぎりながら

 わらうことはできない。



 さるだ。



 さる笑顔えがおだ。



 ただ

 かお

 みにくしわ・・(wrinkle)が

 あるだけなのである。



 ているひと気分きぶんわるくさせるような、

 そんな奇妙きみょう表情ひょうじょう写真しゃしんであった。



子供こどもころ写真しゃしんです。



奇妙きみょう笑顔えがお



かれは、

わらいたくないのに、

わらっているのです。



かれは、一生いっしょう

人間にんげん理解りかいできない」ことで

くるしみます。



まわりのひとなにかんがえているのか、

わからないのです。



だから、

かれは、

まわりのひとよろこばせようとします。



そのために、

たのしくもないのに、わらっているのです。



それが、「さる笑顔えがお」なのです。



べつ写真しゃしんについてもんでみましょう。



 たとえば

 わたしがこの写真しゃしん

 をとじる。



 すでわたし

 このかおわすれている。



 その部屋へやすわっているおとこかお

 おもせない。



 かお印象いんしょう

 すっとえてしまい

 どうしても、おもせない。



 にならないかおである。



 漫画まんがにもならないかおである。



 をひらく。



 あ、こんなかおだったのか

 とおもす。



 おもしても

 よろこびさえない。



 まるで、

 をひらいて、その写真しゃしんふたたても

 おもせない、

 そんなかおである。



 そうして

 ただけで、

 イライラして、気分きぶんわるくなるようなかおである。



 「んだ人間にんげんかお」でも

 もっとなに

 表情ひょうじょう印象いんしょうがある。



これは、

かれ病気びょうきになって、

生活せいかつできなくなったのち写真しゃしんです。



きていても、

そのかお表情ひょうじょうから

きているなにか」をかんじることができない

そんな写真しゃしんなのです。



この物語ものがたり

そんな「葉蔵ようぞう」の人生じんせいはなしです。



ここまでをんで、

くらはなし

おもったかもしれません。



あるいは、

この小説しょうせつあらすじ・・・・(outline)をんで

そうおもったひとがいるかもしれません。



もちろん

あかるいはなしではないでしょう。



とても、くるしいはなしです。



それは、太宰治だざいおさむかんじていた

くるしさ」でしょう。



そして、

それは、

現代げんだいおおくの人間にんげんっている

くるしさ」でしょう。



おおくのひとが、ひとえないまま、

こころなにっている「くるしさ」……



だから、

現代げんだいおおくのひとが、

この小説しょうせつむのだとおもいます。



そして、

そこに、「希望きぼう」をかんじるのだとおもいます。



ここにかれているのは

絶望ぜつぼう」(despair)ではないとおもいます。



この小説しょうせつむと

くるしくてもきるべきだ」

と、おもってしまうのです。



さて、

この葉蔵ようぞうくるしみの原因げんいんひとつは

ちちにあるのでしょう。



葉蔵ようぞう子供こどもころ

ちちとのあいだきたことを

んでみましょう。



ちちは、

国会こっかい議員ぎいん(a member of the Diet)を

しています。



葉蔵ようぞう家族かぞくは、

青森あおもりんでいますが、

ちちは、ほとんど、東京とうきょうにいます。



ある

ちちは、たくさんの子供こどもあつめて

どんな(東京とうきょうの)「おみやげ」がしいかと

たずねます。



みんな、いろいなものをこたえますが、

葉蔵ようぞうだけは、

こたえられません。



 なにしい?

 とかれると

 とたんに

 なにしくなくなるのでした。



 どうでもいい

 自分じぶんたのしくさせるものなんかない

 とおもってしまうのです

 (どうでもいい:I don't care)



 と、同時どうじ

 ひとからあたえられるものは

 どんなに自分じぶんこのみにわなくても

 それをことわることが出来できませんでした。



 いやなことを、いやえないのです。



 また、きなことにも、

 いようのない恐怖きょうふかんじるのです。



 そして、くるしむのでした。



 つまり、自分じぶんには、

 自分じぶんしいものをえらちからがないのです。



 これが

 自分じぶんの「はじ(shame)のおお人生じんせい」の

 原因げんいんひとつだ

 とおもいます。



 ***



 自分じぶんだまっているので、

 ちち機嫌きげんわるくなりました。



 「やはり、ほんか?



  浅草あさくさ仲店なかみせ

  お正月しょうがつ獅子舞ししまいの獅子しし

  子供こどもあそぶのにいいおおきさのが

  っていたけど

  しくないか?」

 (正月しょうがつ:New Year)

 (獅子舞ししまい:a lion dance(獅子しし:lion))



 しくないか?

 とわれると

 もう駄目だめなんです。



 「ほんが、いいでしょう」

 一番いちばんうえあに

 まじめなかおをして

 いました。



 「そうか」

 ちち

 がっかりしたかお

 なにこうともせずに

 その手帳てちょう(notebook)をじてしまいました。



葉蔵ようぞうは、

ちち機嫌きげんわるくなったことが

おそろしくなります。



ちちなにをされるか、わからない

おもいます。



そうおもうと

とてもこわくなりました。



そこで、

かれは、ちちよろこばせるために、

よる

だれにもつからないように

ちち手帳てちょう(notebook)に、

「シシマイ(獅子舞ししまい)」ときます。



かれは、

獅子舞ししまい」など、しくなかったのです。



それでも、

かれは、ちちよろこばせようとします。



そして、

それは、成功せいこうします。



東京とうきょうからかえってちち

とてもよろこんでいます。



 「仲店なかみせの、おもちゃ

  この手帳てちょうひらいたら

  これ、ここに

  シシマイ、といてある。



  これは

  わたしではない。



  なんだろう、とおもいました。



  そして

  わかりました。



  これは

  葉蔵ようぞういたずら・・・・ですよ。



  あいつは

  わたしいたときには

  だまっていたが

  あとで

  獅子しししくなったんだね。



  なにしろ

  どうも

  あれは

  わったやつですからね。



  なにわなかったのに、

  ちゃんといている。



  そんなにしかったのなら

  そうえばよいのに……。



  わたし

  おもちゃまえわらいましたよ。



  葉蔵ようぞうをここへびなさい」



ちちは、

葉蔵ようぞう本当ほんとう気持きもちを

理解りかいしていないのです。



そして、

葉蔵ようぞうは、

このようなことをかえしながら、



他人たにんよろこばせるために、

自分じぶんたいしてうそをつく、

というかたをするようになります。






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